20080101

えこどもという小さな平和活動


えこどもという小さな平和活動


昔、私が日本人の一人もいないエイリアン*の小学校へ一人ぼっちで行くことになった時の話です。初めは、何をいっているのか分からない。しかし、エイリアンも私が何を言いたいのか分からないらしく、お互いに黙って警戒しながら遠い距離をとっていた。ある日、木の上からエイリアンが、つばをたらしてみて、私の反応を確かめようとしたことがある。それは、子どもの最初のコミュニケーションだったかもしれないが、大人は「攻撃だ!」「人種差別だ!」とひどく怒っていた。私には、なんでそんなに怒ったり、謝ったりするのかよくわからなかった。ただ、みんな怖かったのだろうと思った。私が、あなたたちの言葉を分かったらこんな事にはならなかったのにと思った。私は、言葉は暗記科目ではなく、心から出てきた「つば」のようなものだと思う。その人が、「きれいだな」と思ってみせた石ころ、「ねえねえ」のつもりで肩つんつん、「ありがとう」の意味を込めたどんぐり三つ、大事なきらきらシールを貼ったぐるぐる線のラブレター。きっと伝えたいことはここ(胸のあたり)の中にたくさんあります。わからない人にとっては、ただの石ころでも、共通の言葉を知ることで「きれいだね」になります。
以前勤務していた、NGOの運営する英会話スクールのクリスマス会で戦争体験者のお話を聞きました。爆弾の落ちる音を、おばあさんが「バシャン!バシャン!」と全身を使ってお話される姿に、心がふるえました。子どもの心もふるえただろうか。私は、「子どもの心はふるえただろうか?」といつも帰り道に考えるようになりました。えらそうな言い方かもしれないが、子どもと一緒に過ごす事は、少しだけ私の命を削って子どもと向き合っている。もちろん子どももエネルギーを消費して私との時間を過ごしてくれている。常に、異なるものを受け入れるのはとても体力を使う。自分の命を燃やしてそのことについて想う事は、小さな私たちの小さな平和活動です。私が、ニューヨークの美術研究所にいた時、自分の考えを言いあう場面がいつもありました。先生が生徒に批判する一方通行ではなく、仲間同士が先生となって、熱心に意見をいい学びあいます。そこには、先生という名前の人はいません。えこどもにも「先生」はいません。名前で呼び合える関係、共に学びあう場です。えこども ファシリテーター みなこ